第2回都市計画遺産セミナー 中国の都市計画史と日本の都市計画史 学術コラボレーションの可能性を求めて

10月 24, 2013 by · Leave a Comment
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来る11月9日、法政大学で開催される日本都市計画学会学術講演会の会場にて、下記のワークショップを開催します。3月にアメリカのアラン・プラッタス氏(イェール大学教授)を招聘して開催した第1回都市計画遺産セミナーに続く、第2回都市計画遺産セミナーとなります。中国から3名の都市計画史研究者を招聘し、研究を発表して頂きます。皆様のご参加をお待ちしております。

中国の都市計画史と日本の都市計画史
-学術コラボレーションの可能性を求めて

主催:都市計画遺産研究会(日本都市計画学会学術交流組織)

日時:2013年11月9日(土)13時-15時

会場:法政大学田町校舎T413教室
※WS参加費用は無料ですが、学術講演会参加費が必要です。

登壇予定者
中国の都市計画史研究者(発表者)
・李百浩(東南大学教授)
・侯丽(同済大学副教授)
・傅舒蘭(浙江大学講師)
日本の都市計画史研究者(コメンテーター)
・渡辺俊一(東京理科大学嘱託教授)
・中野茂夫(島根大学准教授)
・中島直人(慶應義塾大学准教授) 他

趣旨
ストック型の成熟社会における都市計画史の役割とは一体何だろうか。従来の日本における都市計画史研究は、近代都市計画のコンセプトを生み出した欧米を原点とし、我が国における思想や技術の伝播や理解、普及、変容の度合いに関心を注いできた。しかし、これからの都市計画史研究は、欧米-日本-もう一国という「三角測量」により、豊かな計画文化の世界を描き出す方向を目指したい。本WSでは、近年、都市計画学会内に都市計画史の学術委員会を設置し、都市計画史研究を推進し始めている中国から気鋭の都市計画史研究者を招聘し、1用語と概念、2教育と職能、3遺産と保全の3つのテーマについて、日本と中国との都市計画史研究のコラボレーションの可能性を探る。

下記に本WSの案内がございます。
http://www.cpij.or.jp/com/ac/WS-2013.pdf

【アトラス05】水島の住区基幹公園群

9月 26, 2013 by · Leave a Comment
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現在、瀬戸内工業地域の中核として知られる水島(倉敷市)の工業化がはじまったのは、戦時中のことである。昭和17年に三菱重工業株式会社水島航空機製作所が建設されるとともに、厚生地区が造成された。高度経済成長下、水島は新産業都市の指定を受け、重化学工業の促進が図られたが、一方で環境汚染が本格化し、公害対策が課題となった。水島では、緩衝緑地をはじめとする公園・緑地の整備が先進的に進められたが、そのなかでも、ひと際特徴的なのが最初に市街化された水島地区に数十カ所にわたって開設された住区基幹公園である。
 水島は、現在倉敷に合併されているが、戦前は連島町に属しており、1940(昭和15)年6月24日に旧都市計画法が適用された。1942年4月9日に、連島の都市計画街路と土地区画整理が計画決定され、翌年に事業決定された。連島の都市計画街路は、幾十にも重なった放射環状の壮大な都市計画であった。その実現にあたって土地区画整理区域も約七〇〇万坪の広域にわたって計画されていた。けれども実際には、その中心部にあたる厚生地区だけが「水島第一土地区画整理事業」として1943-51年にかけて優先的に整備された。
さて、その厚生地区には、工場の従業員向けの社宅や寮が多数設けられ、学校や病院、体育館といった厚生施設が配置されるとともに、生活を支える商店街が形成されていった。その一方で、水島第一土地区画整理事業によって、多数の公園用地が確保されていた。こうした公園が計画された背景には、工場の労働環境の改善にあたって保健・衛生が重視されつつあった当時の時代背景があったと考えられる。この保留地こそ、後に公園用地として使われることになる。
連島が倉敷市へ合併されたのを契機に、都市計画公園の整備が本格的にはじめられた。昭和31年7月10日、高橋勇雄倉敷市長からの申請を受けて、岡山都市計画地方審議会が開催されており、同年9月21日に「倉敷都市計画公園追加並びに連島都市計画公園に対する名称及び番号の変更について」が告示された。そのときに添付された「倉敷都市計画公園配置図(その二)」と「設計予想図」は、公園の配置図と設計図になっており、それが現在の住区基幹公園の原型となったと考えられる。
 「倉敷都市計画公園配置図(その二)」には、44公園が記されており、そのうち水島中央公園をのぞく、43公園が小規模な児童公園として計画されていた(旧称「児童公園」は現在の「街区公園」に該当)。水島の住区基幹公園は、戦前の「公園計画標準」にもとづいて用地が確保されていたため、小規模な公園がほとんどであった。このため、公園の整備にあたって複数の公園を合併して一つの公園にするといった計画の見直しが一部でなされたが、それでも一般的な街区公園よりも小規模な多数存在している。現在の計画標準からしてみると狭いものであるかもしれないが、多数の公園が住宅地内にくまなく配置されているという特徴的な公園群なのである。
 現存している住区基幹公園は、四方を街路で囲われた公園が大半を占めている。公園内の設備は当初、砂場、便所、飲用水栓、花壇、東屋などが予定されていたが、時代背景とともに変更が加えられており、現在はバラエティに富んでいる。しかしながら、一部にはほとんど使われていない公園も散見されるといった課題が、中心市街地の空洞化とともに顕在化している。(中野)

【参考文献】
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)所収「岡山県連島都市計画街路決定」「岡山連島都市計画土地区画整理決定」。
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。
(3)岡山県『水島のあゆみ』(同発行、1971)。

図版出典
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。

【アトラス04】 一人施行区画整理による良好な郊外住宅地 –常盤台の計画住宅地-

一九二三(大正十二)年の関東大震災後、東京の郊外への都市拡張が本格化する中で、各私鉄の鉄道会社は乗降客数の増加を狙い、沿線の住宅地開発を行っていた。板橋区常盤台は、一九一四 (大正三)年より開業した東武東上線を運営する東武鉄道によって開発された住宅地で、元は貨物の操車場を予定して用地確保していた駅前の土地二七haで計画された。当地では、土地買収からそのまま分譲という形を採らず、都市計画法十二条の規程に基づき区画整理を実施した。当初は、単純なグリッドパタンによる区画整理を実施しようとしていたが、理想的住宅地の建設を掲げる東武鉄道の社長の意向で、内務省、都市計画東京地方委員会の指導により設計を白紙に戻して、街区設計が行われた。


図1 常盤台のプロムナード(筆者撮影)


図2 昭和11年 常盤台住宅地案内図(図版出典:参考文献2)


東武鉄道社長の理想的住宅地建設と、内務省のこれまでに蓄積した住宅地開発技術の実践の場として、両者の意向が合致し、この住宅地の基本設計は小宮賢一が手がけた。小宮は当時内務省に入省したての若手技師であり、菱田厚介、北村徳太郎、本多次郎らの上司が設計指導にあたったと言われている。ここで、小宮はそれまで大学で学んできた欧米住宅地の設計手法を活かし、それまでの住宅地開発ではまだ日本では見られなかった手法をふんだんに採り入れた設計を試みた。越沢によると、東京で当時計画されていた五〇〇m間隔で東西南北に計画されていた細道路網計画について、小宮は上司から「この予定線には捉われなくてよい」と指示があったと言う。この指示がどのような根拠で出された、またその後実現に向かったのか詳しいことは分らないが、そうした特殊な状況において、実現した例であることは確かである。

 

具体的に設計内容を見てみると、まず宅地規模は百坪程度とゆったりとした敷地規模を確保し、後に建築協定の原型となる建築規約を設けることで、良好な住宅地の維持、更新を担保した。街路計画を見ると、住宅地をほぼ一周する環状道路(用地買収できなかった地区があるため完全な一周ではない)によるプロムナードと駅前ロータリーから延びる放射道路の組合せで、地区の街路が大きく形成しており、当初のグリッドパタンによる街区構成とは全く異なる地区設計を行っている。このプロムナードは曲線を大胆に採り入れて中央には植樹帯が設けられ、特徴的な街路景観を生み出している。また、欧米の住宅地設計で開発されたクルドサックによる袋地の設計、ロードベイによる沿道緑地といった手法の導入も行われた。また、クルドサックの袋地には、災害非常用のために路地空間も設計された。このように、様々な空間技法が区画整理内で実施されたことで、常盤台は日本の戦前の住宅地設計において希有な空間形成の実現を可能にした。これは、グリッドパタンを決して良しとしない内務省の街区設計に対する考え方が端的に表れていると言えよう。常盤台は、鉄道会社が土地を買上げ、一人施行による区画整理が実施されたことで、単一土地所有者の強い意向を反映し、他の組合施行では実現できない特徴的な市街地形成を行うことが可能となった。また、可能であったからこそ、常に情報を仕入れ、最新の欧米の技術等も踏まえていた技師たちによるこれまでにはない、空間づくりを都市計画に基づき実践することが出来た貴重な例と言える。

 

【参考文献】

(1)越沢明「東京都市計画物語」日本経済評論社、一九九一年

(2)板橋区教育委員会生涯学習課文化財係「常盤台住宅物語」文化財シリーズ第八五集、板橋区教育委員会、一九九九年

執筆:中島伸

【アトラス03】お願いだけのまちづくり -岡山中心市街のセットバック空間-

岡山の中心市街地を歩いてみると、セットバックされた歩行者空間がつづいていることに気づかされる。岡山駅前のメインストリートである桃太郎大通りをはじめ、市役所筋、県庁通り、西川緑道公園筋という市街地の主な通りに沿って建物がセットバックされている。

これは、昭和四六年三月に「岡山市の都市美造成のための景観構想計画」に基づくものであるが、このプロジェクト自体、一般にはあまり知られていない。この計画は、「市民が街路を散策し、あるいは建物の窓から街路を眺めたときに、この視角の中で、都市をいかに快適に、又豊かに感じるかのための都市のイメージを作る」ことを目的としていた。その根底には、ヒューマンスケールにあわせた都市を創出しようという意図があったという。発案したのは、岡山市の初代建築指導課長の谷義仁であった。谷を中心とする岡山市の担当職員たちは、①歩行者空間・公共空間を確保するため、前面道路境界からの建築物のセットバック、②セットバックによってうまれた空間の緑化誘導、③建築物に付属する広告物・看板等の色彩・デザインの調整等の三項目について建築主に「お願い」することにした。

ところで、中心市街地でセットバックを行う場合、通常、総合設計制度が用いられる。その場合、セットバックによって良好な歩行者空間を設けた見返りとして、容積の緩和といういわゆる「ボーナス」が与えられることになる。ところが岡山市では、ボーナスの付与もなしに、ただ「お願い」するだけで、セットバック空間の街並みが実現したところに特徴がある。

さて、実際にセットバックを行うにあたって、建築計画があったいくつかの建物に対して依頼したものの、営業面積に直接影響を与えることから交渉は難航した。そこで谷が目をつけたのが、当時、山陽新幹線の開業にあわせて出店を計画していた高島屋であった。高島屋の店舗予定地は、桃太郎大通りと市役所筋が交差する角の一等地であり、岡山市の玄関口といってよい場所であった。セットバックによるまちづくりの一丁目一番地といってよい高島屋に対しては、岡山市長の岡崎平夫もみずからお願いに出向き、理解を求めた。その結果、高島屋はセットバック第一号として昭和四八年五月一九日に開業した。建築家・村野藤吾が設計した岡山高島屋店は、セットバックによる歩行者空間の起点として、現在まで岡山駅前のシンボル的なデパートとなっている。

この谷の目論見は見事にあたり、高島屋につづけとばかり、つぎつぎとセットバックの依頼を受ける建物が増加していった(表1)。セットバックは市役所筋と県庁通りからはじめられ、特に岡山駅から市役所に向かう通り沿いには、良好な歩行者空間が創出された。昭和五一年からは西川緑道公園筋で、昭和六一年からは桃太郎大通りでそれぞれセットバックが開始された。一方で、総合設計制度によるセットバックも行われるようになり、現在のところ市役所筋の五棟、県庁通りの一棟、桃太郎大通りの一棟が該当している。

実際に、これだけ多くのセットバックを「お願い」するにあたって、岡山市では各通りの幅員や特性にあわせたセットバック距離の基準が設定されている(表2)。なかでももっとも高い基準となっているのが市役所筋であり、一階では五メートルものセットバックが求められている。また、西川緑道公園で建物の高さにあわせてセットバック距離を変えるといった配慮を行っているほか、桃太郎大通りでは、おいでんせえ広場のまわりで間口にあわせてセットバックの距離を定めている。このように各通りの特性にあわせて基準が設定したことで、セットバックを容易にし、多くの建物で実現したのである。

ところで岡山のセットバックの形状についてみてみると、三つのタイプがあることがわかる。①建物全体をセットバック、②一階部分のみをセットバック、③ピロティに大別することができる。けれども、そのなかには複合的なタイプも存在しており、例えば、建物全体をセットバックしながらピロティを設けるなど、多種多様な空間となっている。また一方で植栽の配置といった使い方は所有者に委ねられており、一貫性のない印象を受ける。このように連続性のない雑多な建物群が積み重ねられてできたセットバックの空間は、歩行者空間としての魅力を見えにくくしているともいえる。けれども岡山の中心市街地には、「お願い」という建築主の自主性に委ねた、ほとんど例をみない都市計画手法によって、たしかに良好な歩行者空間がひろがっているのである。

【参考文献】

(1)井上亮・中野茂夫「おねがいだけの街づくり〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)

(2)井上亮・中野茂夫「戦後岡山市街地のセットバック形状に関する研究〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)

執筆:中野茂夫

【アトラス02】名古屋の百m道路 戦災復興による広幅員街路

第二次世界大戦で、名古屋市はその市域の四分の一を焼失するという甚大な被害に見舞われたが、敗戦後これを契機とした理想的な都市建設を目標に、復興計画を立案した。復興事業では、旧市街地を中心として、当初四四〇六.六haという当時の市域の約二七%に相当する範囲で計画され、①中心市街地を根本的に改造すること、②罹災地区の復興だけでなく、関連地区を含めて総合的に計画すること、③副都心の設定を計画すること、④特に保健、防火、防災に留意すること等が、基本方針として掲げられた。復興事業は、昭和二一年から昭和六一年にかけて行われ、昭和二四年に財政面から事業区域の変更が行われ、焼け残り家屋の集まる地区が除外された。最終的に名古屋都市計画事業復興土地区画整理事業は、名古屋市長を施行者として、四八の工区からなる施行面積三四五一.七haにおいて実施された。名古屋での戦災復興を指導したのは、佐藤名古屋市長の特命を受けた技監(後に名古屋市助役)の田淵寿郎(1890-1974)である。名古屋では、昭和二一年四月に第1回戦災復興予算を市議会で決定した後に、国の審査を受けることで、自前の計画に基づいた強い態度で計画の承認を得ることができた。多少の計画規模の縮小にとどまり、計画決定することができた。
名古屋市の戦災復興において、特徴的なものとして、都心部の東西と南北で十字に交差して引かれた二本の幅員百m道路がある。東西方向は若宮大通り、南北方向は久屋大通りと言う。南北方向の久屋大通りは、堀川でその延長が止まっているが、これは防災の観点から大通りと川を一体的な防災帯として捉え、さらに東西方向の若宮通りと併せて市街地を四分割することで火災などの被害の拡大を防ぐことを目途としている。百m道路だけではなく、堀川の両側にも一五m以上の幅員の道路を設定したこともこのためである。そして、百m道路には中央にグリーンベルトを設け、都市の美観にも生彩を添える遊歩帯をつくり、避難道路としてだけではなく、都市の象徴的中心を造り出したと言える。現在では、若宮大通りには、高架による環状自動車道が整備されているが、これも田淵の言では百m道路とは別の特殊道路として高速度鉄道予定地の上をとっておいたところがあり、これは高架や地下鉄を通しやすくするために考案されていた。ただの道路拡幅だけではないその先まで見据えた道路インフラ整備であった。久屋大通りには、復興のシンボルとして昭和二九年に内藤多仲設計によるテレビ塔が建設され、まで名古屋の都市景観を代表する場となった。このような百m道路は、戦災復興期には名古屋の他に広島で実現する以外には、他都市でも計画があったにも関わらず実現しなかった貴重な事例である。
また、区画整理において常に課題となるものに墓地移転があるが、名古屋の復興土地区画整理では、市街地に立地していた墓地を、名古屋市東部の東山公園に近い九二haを施行区域に編入し、二六haを墓地の換地先として移転させ、残り六六haを道路及び公園として、緑のあふれるレクリエーションの場を兼ねた平和公園に整備した。墓地の集団移転は本来困難を伴うものであるが、名古屋では寺院の各派代表者から成る名古屋市先生復興墓地整理委員会を結成し、各寺院と交渉することなく、委員会との折衝の中で集団移転を進めることができた。これにより名古屋では東部にまとまった緑地をとることができ、これは現在の緑のインフラとして貴重なストックとなっていると言える。このように名古屋では、計画理念を実行していく上で、市民の理解獲得のための方法に長けた計画者たちの実践によってもたらされた都市計画遺産と言えるだろう。

【参考文献】
(1)名古屋市都市局「なごやの躍進 復興土地区画整理事業完成記念」同発行、一九八一
(2)田淵寿郎「或る土木技師の半自叙伝」中部経済連合会、一九六二
(3)米谷栄二「名古屋市戦災復興都市計画事業に関する研究(中間報告書)」一九七〇

 

【図版出典】
図1 名古屋市「戦災復興誌」名古屋市計画局発行、一九八四年
図2 筆者撮影

執筆:中島伸

【アトラス01】 松江の官庁街 -島根県庁周辺整備計画の遺産

松江の官庁街の中心に建つ現在の島根県庁舎は五代目を数える。四代目県庁舎の焼失後、復興対策特別委員会が設置され、行政機能の多様化によって分散していた施設を集中させるという基本方針が立てられた。設計者として白羽の矢が立ったのが、当時、建設省営繕局に勤務していた安田臣(かたし)である。安田は旧三之丸の敷地のできるだけ北側に本庁舎を配置し、周辺から松江城(国指定重要文化財)に向けた眺望に配慮した。このため、高さを地上六階に抑えるとともに地下を設けている。一方で、松江城を含む城山公園と一体化させるために、県庁舎の前に庭園が設けられた。庭園の設計を担当したのは、重森三玲の息子の重森完途である。一方で、庭園の南側に隣接して博物館が設置された。博物館の設計を担当したのは、新進気鋭の若き建築家・菊竹清訓であった。こうして県庁周辺の基本構成ができあがった。

このころ官庁の一団地建設が昭和三一年に改正された「官公庁施設の建設等に関する法律」のもとで、各地で計画されようとしていた(霞ヶ関、盛岡、秋田、名古屋、静岡等)。島根県では最終的に同法は適用されなかったが、県政に強いリーダーシップを発揮した田部長右衛門知事のもとで県庁周辺整備計画が開始された。

昭和三六年二月二〇日に開催された県議会で県庁のすぐ裏にあった刑務所の移転が決定され、この跡地利用が官庁街再編の発端となった。昭和三九年九月二一日に開催された県議会で田部は文化会館と図書館の建設について言及しており、その調査に向けた予算措置を行っている。そして昭和四〇年四月に当時、中国地方建設局長だった大塚全一と独立して事務所を構えていた安田臣と県当局とで協議が行われ、県庁周辺整備委員会が発足した。同年八月一九日に第一回県庁周辺整備委員会が開催されており、委員には大塚と安田に加え、専門家として武基雄、松井達夫という早稲田大学教授が名を連ねた。第一回の委員会では、県民会館の位置が決定され、県庁舎との関係から、安田が設計を担当することになった。安田は県民会館の西側のファサードを県庁舎と一体的なデザインにすることで、景観の統一を図った。県民会館は昭和四三年九月二五日に竣工した。第二回委員会は昭和四一年一月一九日に開催された。旧刑務所跡地の利用について審議され、図書館の建設が決定された。同年七月二八日に開催された第三回委員会でも引きつづき跡地利用について審議が行われ、武道館の位置が決定された。図書館と武道館の設計を任されたのは、さきに博物館の設計を担当した菊竹であった。図書館はL型を原則とする平面構成となっており、城山公園の散歩道からその特徴的な姿を見ることができる。島根県立図書館は昭和四三年一〇月一五日に、武道館は昭和四五年七月一五日に竣工した。昭和四四年一月二九日には、県庁周辺整備元委員懇談会が開催され、旧委員に菊竹を加えて武道館、議事堂別館、松江合同庁舎の建設に関して意見交換が行われた。この懇談会の議を経てそれぞれ着工し、いずれも昭和四五年に竣工した。

一方、県庁舎の前には、市所有の土地が残されており、消防署等の建物が建っていた。当時、多くの批判があったというが、田部知事の英断で県庁舎前の土地すべてを買収し、庭園の第二期工事に着手した。造園も引き続き重森によって行われた。重森は、島根県の海と雲と山と平野をテーマに設計しており、松をモチーフとしながらも日本庭園から脱却したデザインを施した。この庭園が存在していることにより、松江城と、県庁舎・県民会館、博物館(現島根県公文書センター)等の県庁周辺整備計画の遺産とが一体化する空間が創出された。伝統的なイメージの強い松江ではあるが、戦後モダニズムの建物群が集積する官庁街も都市を代表する景観をつくっており、島根県では現在、県庁舎の耐震改修工事を行うとともに、その継承が模索されている。

 

【参考文献】
(1)島根県『島根県庁周辺整備誌』(同発行、一九七一)
(2)中野茂夫「近現代松江の官庁街形成史〜官公署・文教施設の配置と県庁周辺整備計画に注目して〜」(日本都市計画学会『都市計画論文集』四七−三、二〇一二)

執筆:中野茂夫

第1回都市計画遺産セミナーのお知らせ Civic Art: its Legacy and Contemporary Relevance?

来たる2013年3月8日に、都市計画遺産研究会主催の第一回都市計画遺産セミナーを開催致します。今回は、イェール大学教授のアラン・プラッタス氏を招聘します。「都市計画家、都市デザイナーにとって、都市計画史はいかなる意味を持つのか」を「シヴィックアート」をテーマにご講演して頂きます。下記、詳細です。
>>第一回都市計画遺産セミナーのポスターはこちら

Planning Heritage Seminar #1
Special Lecture
Prof. Alan J Plattus(Yale University)
Civic Art: its Legacy and Contemporary Relevance?

第一回都市計画遺産セミナー
アラン・プラッタス氏(イェール大学建築学部教授)講演
『シヴィックアート:その遺産と現代的意義』

■日時:2013 年3 月8 日(金)14 時~ 16 時
■会場:東京大学工学部1 号館3 階建築学科会議室 (東京大学本郷キャンパス)
■使用言語:英語・日本語   ※ご講演は英語で行って頂きますが、逐次通訳が入ります。
■定員:30 名(事前申し込み先:中島直人(慶應義塾大学)naoto@sfc.keio.ac.jp)

■趣旨:
歴史家は歴史を書くために歴史に没入します。では、都市計画家や都市デザイナーは何のために歴史に向き合うのでしょうか。 それは都市の現在、都市の未来のためではないでしょうか。本セミナーでは、イェール大学建築学部で都市デザインの教育に携わり、イェール・アーバンデザイン・ワークショップを設立し、地域コミュニティとの協働を基盤とした都市デザインの実践を行ってきたアラン・プラッタス教授を招聘し、「過去のアーバニズムにどう現代的な意義を見出すのか」というテーマでご講演を頂きます。プラッタス教授は、1922 年に出版されたワーナー・ヘゲマンとアルベルト・ピートによる名著『アメリカのヴィトルヴィウス 建築家のためのシヴィックアートの手引き』の復刻や、イェール大学のお膝元であるニューヘイヴン市のシ ティ・ビューティフル運動時代の傑出したプラン『ニューヘイヴン計画1910』の復刻を手がけてこられました。一方で、ニューアーバニズム運動にも最初期から関わり、コネチカット州の中小都市を中心に、アメリカ内外でニューアーバニズムの実践を展開されています。「シヴィックアート」をキーワードに、歴史への言及と実践活動との関係についてお話し頂きます。

■アラン・プラッタス氏の詳しいプロフィールは下記をご覧下さい。http://www.architecture.yale.edu/drupal/people/faculty/plattus-alan-j http://www.architecture.yale.edu/UDW/profile/alan.html

■都市計画遺産セミナーとは?
都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)は、「我が国の近代都市計画が現在までに生み出してきたもの、そしてその中で将来に遺していくべきものは何か」を問い、それらを新たに提起、定義すべき「都市計画遺産」(planning heritage) という概念のもとで整理し、今後の都市づくりにおける扱い方について検討していくこと)を目的に、2010 年4 月より活動を開始しています。都市計画遺産研究公開セミナーは、都市計画遺産研究会が主催する公開研究会で、毎回、「都市計画史」や「都市の歴史」をテーマに、国内外から講師をお呼びし、「都市計画遺産」についての知見を磨いていきます。

ぜひ、ご参加下さい。

 

横浜防災建築街区ツアー 第8回前現代委員会

1月 2, 2013 by · Leave a Comment
Filed under: 前現代遺産研究委員会 

年末の12月27日、第8回前現代委員会を横浜の防火建築帯の一つ、吉田町ビルの一階、飯田善彦建築工房ライブラリーカフェで開催しました。発表は東大の北垣先生(構造・材料)、と横国大の藤岡先生(建築計画)。これで2年間にわたる研究会は終了し、あとは3月までに報告書をまとめて、自分たちの考えを世に問います。研究会後は横浜防火建築帯ツアー。更にその後の野毛の浜幸の馬鹿鍋で交流会。やはり現場で話を聴くと、理解度が違ってきます。防火建築帯、そしてディープな横浜に魅了された一日でした。

 

 

神戸の闇市 埋もれた記憶に光 神戸大院生が研究(神戸新聞、2012年12月25日夕刊)

12月 25, 2012 by · Leave a Comment
Filed under: 前現代遺産研究委員会 

現代の都市・建築遺産の計画学的研究特別研究委員会のメンバーの村上しほりさんの研究が神戸新聞にて報道されました。非常に地道な歴史研究にこうした光が当たるのは、嬉しいことです。とりあえず、下記、記事から思いっきり引用します。

http://eonet.jp/news/kansai/kobe/article.cgi?id=60168

神戸の闇市 埋もれた記憶に光 神戸大院生が研究

(12月25日 16:20)

戦後、神戸の省線三ノ宮‐神戸間(現在のJR線)の高架下にできた闇市の形成過程や変容を追う研究に、神戸大学大学院人間発達環境学研究科博士課程(歴史社会学)の村上しほりさん(25)=神戸市東灘区=が取り組んでいる。全国各地で闇市の研究があるが、神戸で体系的にまとめた史料がほとんどないといい、村上さんは戦後の埋もれた歴史に光をあてる。

1945年8月15日~48年6月30日の神戸新聞に目を通し、関連記事を抽出。当時を知る商店主らにインタビューなどをして昨年修士論文をまとめ、日本建築学会の優秀修士論文賞を受けた。

当時、政府運営の鉄道は省線とされ、その後、国鉄に。論文によると、高架下の闇市は約2キロにわたり、屋台が約1500軒が並び、「三宮自由市場」と呼ばれた。高架南側の通りと緑地帯はバラックが埋め尽くした。

当時の本紙は闇市の様子をこう描く。「『甘い甘い』『ひとつ五円』の呼び声、渦巻いて蝟集(いしゅう)する黒山の群衆、車道にはみ出た男女の間を警笛を絶え間なく鳴らして通り抜けようとするトラツク、ジープ」「人目をひくのは妙な饅頭(まんじゅう)を二、三十個ばかり入れた籠を抱へる行商人…」

占領期に進駐軍向けの売店で物資購入や特別配給の権利があった中国、台湾、朝鮮人は高価で甘い食べ物を売り出すことができた。露天商は引き揚げ者らの受け皿となり、露天商組織が形成された。組織対立、警察の取り締まりが頻繁にあり、新聞には「取締隊が初の出動 禁制品に粛正のメス」「露店粛正始まる“神戸名物”に終止符」という見出しが躍った。

立ち退きになった業者によって、現在のJR三ノ宮駅東に通称「国際マーケット」が誕生。朝鮮人の商人組織が取り仕切り、菓子やゴム靴を売る問屋数百軒がひしめいたという。同駅南にできたバラック飲食店街「ジャンジャン市場」は港湾労働者らでにぎわった。

村上さんは現在、範囲を兵庫区新開地にも広げて調査、「神戸の闇市の特徴は在留外国人の存在感があるところ。焼け野原から形成され、衰退していった過程を追いたい」と話している。

修士論文の入手希望者は村上さん(shihori.myu@gmail.com)へ。

[神戸新聞社]

 

『いいビルの写真集 WEST』と『東京建築 みる・あるく・かたる』

11月 18, 2012 by · Leave a Comment
Filed under: 出版, 前現代遺産研究委員会 

前現代委員会のスター、高岡伸さんが引っ張るBMC(ビルマニアカフェ)の渾身の一作『いいビルの写真集 WEST』(2012年7月刊行)があちこちで話題になっています。また、もう一人のスター、倉方俊輔さんの新刊『東京建築 みる・あるく・かたる』も、先週、発売になったようです。新世代新感覚のまち建築ガイド本です。

 

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