【アトラス04】 一人施行区画整理による良好な郊外住宅地 –常盤台の計画住宅地-

一九二三(大正十二)年の関東大震災後、東京の郊外への都市拡張が本格化する中で、各私鉄の鉄道会社は乗降客数の増加を狙い、沿線の住宅地開発を行っていた。板橋区常盤台は、一九一四 (大正三)年より開業した東武東上線を運営する東武鉄道によって開発された住宅地で、元は貨物の操車場を予定して用地確保していた駅前の土地二七haで計画された。当地では、土地買収からそのまま分譲という形を採らず、都市計画法十二条の規程に基づき区画整理を実施した。当初は、単純なグリッドパタンによる区画整理を実施しようとしていたが、理想的住宅地の建設を掲げる東武鉄道の社長の意向で、内務省、都市計画東京地方委員会の指導により設計を白紙に戻して、街区設計が行われた。


図1 常盤台のプロムナード(筆者撮影)


図2 昭和11年 常盤台住宅地案内図(図版出典:参考文献2)


東武鉄道社長の理想的住宅地建設と、内務省のこれまでに蓄積した住宅地開発技術の実践の場として、両者の意向が合致し、この住宅地の基本設計は小宮賢一が手がけた。小宮は当時内務省に入省したての若手技師であり、菱田厚介、北村徳太郎、本多次郎らの上司が設計指導にあたったと言われている。ここで、小宮はそれまで大学で学んできた欧米住宅地の設計手法を活かし、それまでの住宅地開発ではまだ日本では見られなかった手法をふんだんに採り入れた設計を試みた。越沢によると、東京で当時計画されていた五〇〇m間隔で東西南北に計画されていた細道路網計画について、小宮は上司から「この予定線には捉われなくてよい」と指示があったと言う。この指示がどのような根拠で出された、またその後実現に向かったのか詳しいことは分らないが、そうした特殊な状況において、実現した例であることは確かである。

 

具体的に設計内容を見てみると、まず宅地規模は百坪程度とゆったりとした敷地規模を確保し、後に建築協定の原型となる建築規約を設けることで、良好な住宅地の維持、更新を担保した。街路計画を見ると、住宅地をほぼ一周する環状道路(用地買収できなかった地区があるため完全な一周ではない)によるプロムナードと駅前ロータリーから延びる放射道路の組合せで、地区の街路が大きく形成しており、当初のグリッドパタンによる街区構成とは全く異なる地区設計を行っている。このプロムナードは曲線を大胆に採り入れて中央には植樹帯が設けられ、特徴的な街路景観を生み出している。また、欧米の住宅地設計で開発されたクルドサックによる袋地の設計、ロードベイによる沿道緑地といった手法の導入も行われた。また、クルドサックの袋地には、災害非常用のために路地空間も設計された。このように、様々な空間技法が区画整理内で実施されたことで、常盤台は日本の戦前の住宅地設計において希有な空間形成の実現を可能にした。これは、グリッドパタンを決して良しとしない内務省の街区設計に対する考え方が端的に表れていると言えよう。常盤台は、鉄道会社が土地を買上げ、一人施行による区画整理が実施されたことで、単一土地所有者の強い意向を反映し、他の組合施行では実現できない特徴的な市街地形成を行うことが可能となった。また、可能であったからこそ、常に情報を仕入れ、最新の欧米の技術等も踏まえていた技師たちによるこれまでにはない、空間づくりを都市計画に基づき実践することが出来た貴重な例と言える。

 

【参考文献】

(1)越沢明「東京都市計画物語」日本経済評論社、一九九一年

(2)板橋区教育委員会生涯学習課文化財係「常盤台住宅物語」文化財シリーズ第八五集、板橋区教育委員会、一九九九年

執筆:中島伸

【アトラス03】お願いだけのまちづくり -岡山中心市街のセットバック空間-

岡山の中心市街地を歩いてみると、セットバックされた歩行者空間がつづいていることに気づかされる。岡山駅前のメインストリートである桃太郎大通りをはじめ、市役所筋、県庁通り、西川緑道公園筋という市街地の主な通りに沿って建物がセットバックされている。

これは、昭和四六年三月に「岡山市の都市美造成のための景観構想計画」に基づくものであるが、このプロジェクト自体、一般にはあまり知られていない。この計画は、「市民が街路を散策し、あるいは建物の窓から街路を眺めたときに、この視角の中で、都市をいかに快適に、又豊かに感じるかのための都市のイメージを作る」ことを目的としていた。その根底には、ヒューマンスケールにあわせた都市を創出しようという意図があったという。発案したのは、岡山市の初代建築指導課長の谷義仁であった。谷を中心とする岡山市の担当職員たちは、①歩行者空間・公共空間を確保するため、前面道路境界からの建築物のセットバック、②セットバックによってうまれた空間の緑化誘導、③建築物に付属する広告物・看板等の色彩・デザインの調整等の三項目について建築主に「お願い」することにした。

ところで、中心市街地でセットバックを行う場合、通常、総合設計制度が用いられる。その場合、セットバックによって良好な歩行者空間を設けた見返りとして、容積の緩和といういわゆる「ボーナス」が与えられることになる。ところが岡山市では、ボーナスの付与もなしに、ただ「お願い」するだけで、セットバック空間の街並みが実現したところに特徴がある。

さて、実際にセットバックを行うにあたって、建築計画があったいくつかの建物に対して依頼したものの、営業面積に直接影響を与えることから交渉は難航した。そこで谷が目をつけたのが、当時、山陽新幹線の開業にあわせて出店を計画していた高島屋であった。高島屋の店舗予定地は、桃太郎大通りと市役所筋が交差する角の一等地であり、岡山市の玄関口といってよい場所であった。セットバックによるまちづくりの一丁目一番地といってよい高島屋に対しては、岡山市長の岡崎平夫もみずからお願いに出向き、理解を求めた。その結果、高島屋はセットバック第一号として昭和四八年五月一九日に開業した。建築家・村野藤吾が設計した岡山高島屋店は、セットバックによる歩行者空間の起点として、現在まで岡山駅前のシンボル的なデパートとなっている。

この谷の目論見は見事にあたり、高島屋につづけとばかり、つぎつぎとセットバックの依頼を受ける建物が増加していった(表1)。セットバックは市役所筋と県庁通りからはじめられ、特に岡山駅から市役所に向かう通り沿いには、良好な歩行者空間が創出された。昭和五一年からは西川緑道公園筋で、昭和六一年からは桃太郎大通りでそれぞれセットバックが開始された。一方で、総合設計制度によるセットバックも行われるようになり、現在のところ市役所筋の五棟、県庁通りの一棟、桃太郎大通りの一棟が該当している。

実際に、これだけ多くのセットバックを「お願い」するにあたって、岡山市では各通りの幅員や特性にあわせたセットバック距離の基準が設定されている(表2)。なかでももっとも高い基準となっているのが市役所筋であり、一階では五メートルものセットバックが求められている。また、西川緑道公園で建物の高さにあわせてセットバック距離を変えるといった配慮を行っているほか、桃太郎大通りでは、おいでんせえ広場のまわりで間口にあわせてセットバックの距離を定めている。このように各通りの特性にあわせて基準が設定したことで、セットバックを容易にし、多くの建物で実現したのである。

ところで岡山のセットバックの形状についてみてみると、三つのタイプがあることがわかる。①建物全体をセットバック、②一階部分のみをセットバック、③ピロティに大別することができる。けれども、そのなかには複合的なタイプも存在しており、例えば、建物全体をセットバックしながらピロティを設けるなど、多種多様な空間となっている。また一方で植栽の配置といった使い方は所有者に委ねられており、一貫性のない印象を受ける。このように連続性のない雑多な建物群が積み重ねられてできたセットバックの空間は、歩行者空間としての魅力を見えにくくしているともいえる。けれども岡山の中心市街地には、「お願い」という建築主の自主性に委ねた、ほとんど例をみない都市計画手法によって、たしかに良好な歩行者空間がひろがっているのである。

【参考文献】

(1)井上亮・中野茂夫「おねがいだけの街づくり〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)

(2)井上亮・中野茂夫「戦後岡山市街地のセットバック形状に関する研究〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)

執筆:中野茂夫

【アトラス02】名古屋の百m道路 戦災復興による広幅員街路

第二次世界大戦で、名古屋市はその市域の四分の一を焼失するという甚大な被害に見舞われたが、敗戦後これを契機とした理想的な都市建設を目標に、復興計画を立案した。復興事業では、旧市街地を中心として、当初四四〇六.六haという当時の市域の約二七%に相当する範囲で計画され、①中心市街地を根本的に改造すること、②罹災地区の復興だけでなく、関連地区を含めて総合的に計画すること、③副都心の設定を計画すること、④特に保健、防火、防災に留意すること等が、基本方針として掲げられた。復興事業は、昭和二一年から昭和六一年にかけて行われ、昭和二四年に財政面から事業区域の変更が行われ、焼け残り家屋の集まる地区が除外された。最終的に名古屋都市計画事業復興土地区画整理事業は、名古屋市長を施行者として、四八の工区からなる施行面積三四五一.七haにおいて実施された。名古屋での戦災復興を指導したのは、佐藤名古屋市長の特命を受けた技監(後に名古屋市助役)の田淵寿郎(1890-1974)である。名古屋では、昭和二一年四月に第1回戦災復興予算を市議会で決定した後に、国の審査を受けることで、自前の計画に基づいた強い態度で計画の承認を得ることができた。多少の計画規模の縮小にとどまり、計画決定することができた。
名古屋市の戦災復興において、特徴的なものとして、都心部の東西と南北で十字に交差して引かれた二本の幅員百m道路がある。東西方向は若宮大通り、南北方向は久屋大通りと言う。南北方向の久屋大通りは、堀川でその延長が止まっているが、これは防災の観点から大通りと川を一体的な防災帯として捉え、さらに東西方向の若宮通りと併せて市街地を四分割することで火災などの被害の拡大を防ぐことを目途としている。百m道路だけではなく、堀川の両側にも一五m以上の幅員の道路を設定したこともこのためである。そして、百m道路には中央にグリーンベルトを設け、都市の美観にも生彩を添える遊歩帯をつくり、避難道路としてだけではなく、都市の象徴的中心を造り出したと言える。現在では、若宮大通りには、高架による環状自動車道が整備されているが、これも田淵の言では百m道路とは別の特殊道路として高速度鉄道予定地の上をとっておいたところがあり、これは高架や地下鉄を通しやすくするために考案されていた。ただの道路拡幅だけではないその先まで見据えた道路インフラ整備であった。久屋大通りには、復興のシンボルとして昭和二九年に内藤多仲設計によるテレビ塔が建設され、まで名古屋の都市景観を代表する場となった。このような百m道路は、戦災復興期には名古屋の他に広島で実現する以外には、他都市でも計画があったにも関わらず実現しなかった貴重な事例である。
また、区画整理において常に課題となるものに墓地移転があるが、名古屋の復興土地区画整理では、市街地に立地していた墓地を、名古屋市東部の東山公園に近い九二haを施行区域に編入し、二六haを墓地の換地先として移転させ、残り六六haを道路及び公園として、緑のあふれるレクリエーションの場を兼ねた平和公園に整備した。墓地の集団移転は本来困難を伴うものであるが、名古屋では寺院の各派代表者から成る名古屋市先生復興墓地整理委員会を結成し、各寺院と交渉することなく、委員会との折衝の中で集団移転を進めることができた。これにより名古屋では東部にまとまった緑地をとることができ、これは現在の緑のインフラとして貴重なストックとなっていると言える。このように名古屋では、計画理念を実行していく上で、市民の理解獲得のための方法に長けた計画者たちの実践によってもたらされた都市計画遺産と言えるだろう。

【参考文献】
(1)名古屋市都市局「なごやの躍進 復興土地区画整理事業完成記念」同発行、一九八一
(2)田淵寿郎「或る土木技師の半自叙伝」中部経済連合会、一九六二
(3)米谷栄二「名古屋市戦災復興都市計画事業に関する研究(中間報告書)」一九七〇

 

【図版出典】
図1 名古屋市「戦災復興誌」名古屋市計画局発行、一九八四年
図2 筆者撮影

執筆:中島伸

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